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zoom RSS 司馬遼太郎先生についての私(わたくし)的評論

<<   作成日時 : 2007/10/24 00:12   >>

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司馬先生は、基本的に学校が嫌いであった。

嫌いになった経緯については、こう述べられている。

新学期の社会科の授業で、教師に
「なぜ、ニューヨークには、ニューヨークという名前がついたのでしょうか?」
と質問した。
その教師は、この質問を授業妨害と受けとり、司馬少年は罵倒されたそうである。

しかし、その後図書館で本を調べると、なぜニューヨークという名がついたのかの歴史的経緯が簡単に分かったという。

このときから、司馬先生の図書館での独学による学問というスタイルが成立した。
司馬少年を罵倒した教師は、日本の文化史に極めて大きな貢献をしたともいえる。

司馬先生の言う学問のプロセスは、定石というものであった。

まず、対象となる事案について、古今の文献を渉猟する。
司馬先生が、ある事案についての小説を書き始めると神田の古書店から関係の本がごっそり無くなったという。

関連する知識を収集するだけでは、「ゴミをぶちまけたようなもの」だそうで
その情報を分類し、整理する。

そして、その情報の中からある原理を抽出し、体系化するのである。

この方法論は、学術研究の基本的なプロセスである。

ひとつだけ私見を加えさせてもらうとすると、情報を整理分析し終わった後に結論まで到達する方法は大まかに2つある。
まず一気に結論への仮説を立ててその通りかを検証し仮説をひとつずつつぶしていくアプローチ法と、考えを漸進させて手堅く結論へ到達する方法がある。

ちなみに前者の方法を採ったのが湯川秀樹先生で後者が朝永振一郎先生であったと聞く。
司馬先生はどちらだったのだろう。
ちなみに学業上の成績は後者の方法をとるタイプの人の方が良いようである。(朝永先生の高校での物理の試験は常に満点だったそうである。)

司馬先生は、よく言われるように合理的なことが好きであった。

また、自己を確立していない子供(年齢は幾つであっても)を軽蔑した。
司馬先生の小説には「子供」は登場しないという。

たとえば、「新史太閤記」の日吉丸は年齢は子供であるが、精神は独立した大人である。

最後にひとつだけ、司馬先生のどの著作にも書いてはいないが

実は、アメリカが好きではなかったのではないか。

とひそかに思っている。

「街道をゆく」で始めてアメリカ本土行きの計画が編集部から挙がったとき

「あまりに広い空間が苦手で、それを労わる意味で行く地域を限定した。」として
「ニューヨーク散歩」
を書いておられる。

しかし、これを読んだときに、遥かに広い空間が広がるモンゴルを愛した司馬先生のこの文章としては説得力が無かったことを覚えている。(珍しいことだが・・)

やはり、米国との戦争は、いかに当時の日本政府のやり方に問題があったとしても、司馬先生の心に影を落としていたのではないか、と考えたりする。

司馬先生は、「21世紀を生きる君達へ」でもはっきり書いているように
「自己を確立しろ」
という、後世の人々への明確なメッセージを残した。

また、同じ文章の中で、ご自分が21世紀には、もう居ないことをはっきりと予言しておられる。
なぜ、そのことが分かっていたのかについては、遥かに及ばない私には分かるはずも無いのである。

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