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zoom RSS 生死観について

<<   作成日時 : 2007/11/10 06:50   >>

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当然のことであるが、人間は必ず死ぬことになっており、これについてはどんな人であっても例外は無い。

司馬先生の著作の中では、
「大乗仏教によれば、人の生も死も、野に風が吹いたり雨が降るのと同じ自然のひとつの表現にすぎない。」
と言われているそうである。

ちなみに仏教においては、人は輪廻することになってはいるが、次に生まれ変わる時には、
もうその人ではなくなっているらしい。
「そんなのは、嫌だ。」
という考えを捨てるべきである、というのがひとつの悟りらしい。

織田信長が本能寺の変で、最期を迎えるとき、桶狭間の戦いと同じように
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
             ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
と「敦盛」の謡を舞う演出は、典型的なもののようである。
最近は寿命が延びたとはいえ、せいぜい80年程度で、「下天のうちを比ぶれば」かつての状況と変わりは無い。

人は、生死の一線を越えたときに「悟達」の境地に達するという。
吉田松陰は、アメリカへの密航に失敗し、罪を得て(自ら進んで)囚われた時、同行した弟子の金子重之助ともに本を読み、漢の夏侯勝と黄覇の故事を引いて
「金子君、今日の読書こそ真の学問である。」
と言ったそうである。
この時代の密航の量刑は「死罪」である。
吉田松陰は、このころすでに生を捨て切っており禅でいう闊然たる世界に突き抜けてしまっていたらしい。
この心境とは、「目をひらけば空気がきらきらと光るようで、つい踊りたくなるようなよろこびがある。」そうである。

しかしながら、普通の人にとっては当然のことながら「死」は受け入れがたいし、それが正常な感覚であろう。

「人間は、寿命の限り生きなければならない。」
と孫子の書にもある。だが、
「夏に皮衣を着ることがないように、人生の時期を誤ってはならない。」
とも説いている。

「この世に棲む日々」の期間は、ほんの一瞬であるなら、その瞬間に賭けるべきであろう。

「竜馬がゆく」の中で坂本竜馬は、維新の回天に向けて海援隊の仲間に言う。
「これから、ここにいる仲間の多くが斃れるだろう。しかし、斃れるときは、その目標に向かって、そのままの姿勢で斃れよ。」

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