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zoom RSS 時代の変わり目

<<   作成日時 : 2008/01/23 00:35   >>

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昨年の大河ドラマ「風林火山」は、武田信玄に仕えた山本勘助という人物が主役である。
「甲陽軍艦」という書物に現れる軍略家であるが、その存在については賛否が分かれているようである。
ちなみに「桶狭間の戦い」の場面で織田信長が出てくるかと思ったが、影絵のようなものだけで、誰が演じているか分からなかった。

また、勘助のライバルとして「上杉謙信」(長尾景虎)が天才的な武将として描かれている。(ガクトの演技はなかなかのものだと感心している。)

しかしながら、後世の我々が知っているように、天下は彼らの手には落ちなかった。

織田信長の遺志をついで、天下を統一したのは豊臣秀吉であった。

彼は、天下を統一した後、全国の戦場跡を見て歩いたそうだが、上杉謙信の戦場の跡をみて
「しょせんは、田舎大名である。」
と言ったそうである。

武田信玄や上杉謙信は中世の人であるのに対し、兵農分離をなしとげた織田信長や豊臣秀吉は近世の人であった。現在の軍事の位置づけと同様、かれらの戦(いくさ)は、政治の一環に過ぎなかった。
近世の人間にとっての戦争は、政略によって勝つ状況にまで持っていき、最後に勝つべくして勝つものであった。

秀吉が、上杉謙信のことを
「田舎大名である。」
と評したのは、その戦いに投機性が強すぎ、戦術にのみ長けていたことについての批判であった。

政略が戦略を制御しているということの典型は
「関が原の戦い」
である。
明治になって陸軍がドイツから招聘した参謀メッケルが大学校で教鞭をとっているとき、関が原の軍の配置図をみたとき
「これは、西軍の勝ち以外にありえぬ。」
と断言した。
純軍事的には、石田三成の勝ちである。(そもそも徳川軍主力3万とも3万5千とも言われる家康の嫡子秀忠軍が戦闘に間に合わなかったのだから・・)しかし、家康の調略により西軍のほとんどの武将は動かなかっただけでなく、小早川秀秋にあっては寝返ってしまったのである。まったく、家康というのは凄いひとである。

「関が原の戦い」は、近代以前の戦いとして、少し時代が下るがナポレオン最後の戦闘であった「ワーテルローの戦い」とよく比較されるそうであるが、その規模においても政治的背景の複雑さにおいても「関が原の戦い」の方が遥かにスケールが大きい。

織田信長は、日本全体に「楽市・楽座」といった新しい自由経済圏を拡げるために天下統一を目指したとも言われている。彼は新しい時代を造るために、古い秩序を破壊することをためらわなかった。そのために、非情であることを要したのである。彼が、何度か大虐殺を行ったにもかかわらず「殺戮者」とは呼ばれず「英雄」と呼ばれるのは、この歴史上の評価のためである。しかしながら、彼のやり方には人々は最後までついていけず、いずれ誰かに斃されるのも必然であったようである。

一方、武田信玄や上杉謙信に次の時代のビジョンがあっただろうか?

戦国時代には、こういった大きな時代の変わり目があったのであるが、この時代の変化をもたらしたのは、農作物などの生産性が飛躍的に伸びた時期であったことと無関係ではないと思うのであるが、それは別な記事で述べたいと思う。






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