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zoom RSS アームストロング砲

<<   作成日時 : 2008/04/26 07:41   >>

驚いた ブログ気持玉 9 / トラックバック 1 / コメント 1

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           (4斤山砲の写真です。)

かつて学生の頃に、会津若松を訪ねたことがあった。

そのときに、白虎隊記念館において幕末戊辰戦争のときに使用された刀や
遺された新撰組の「誠」の旗などと一緒に

官軍が使った大砲(調べると4斤山砲(4ポンド砲)のようである)と会津軍がつかった砲が並べておいてあった記憶がある。

砲身をのぞくと官軍の砲内壁には施条がなされており、会津軍のものはつるつるのままであった。

(なるほど)
と当時思った記憶がある。

施条がなされている場合、砲弾は回転しながら飛ぶため命中精度が上がり、かつ飛距離が伸びる。

会津軍のものは、おそらく青銅砲だったのであろう。

「戦争は、兵器と兵器の戦いである。」
と司馬先生は著作の中で言われている。

近代以降の戦争では、特にそうであろう。

この当たり前の事実を日本は忘れたことがあった。

それはともかくも、さらに、このとき
アームストロング砲

のことを思い出したのである。

アームストロング砲とは、幕末の時点で英国において開発された後装式の施条砲であり、
その射程距離は4千から5千メートルと言われた。

当時の最大の要塞砲である24ポンドカノン砲の射程は2千8百メートル程度しかなかった。

さらに、後装式であるため発射能力は、当時の普通砲の十倍である。

この砲は、薩英戦争のときに英国海軍が使用し、戦闘の前半では絶大な威力を発揮した。

しかしながら、砲の耐久性がなく20発ほどの発射で砲身にひびが入り、使用できなくなった。

薩英戦争が、「引き分け」だったといわれるのは、戦闘の後半ではアームストロング砲が沈黙したため英国艦隊は、沿岸に接近せざるを得ず、薩摩の要塞砲にやられたためである。

これらの事実を知って、国産化をめざしたのが佐賀藩であった。

苦心惨憺の上、国産化に成功したと言われ、
「安式砲」
と呼ばれた。

佐賀藩が英国から購入したアームストロング砲が戊辰戦争のなかで、威力を発揮したのは江戸に上野寛永寺に駐屯していた彰義隊との戦いのときである。

彰義隊の兵力は3千で官軍の江戸兵力も3千しかなかった。

常識的には、包囲殲滅は不可能である。

このため、官軍は北側をあけた状態で上野の山を包囲し、彰義隊が散らぬように戦闘を開始した。
彰義隊による江戸の町への放火を防ぐためである。

戦闘は、早朝から始まり、本郷台のアームストロング砲へ発射命令がでたのは正午前だったといわれる。

砲は2門据えられ、発射した尖頭弾は、不忍池を越えて飛び、上野山中の寺塔を破壊していった。

2門それぞれ6弾を送り終わったときに、上野の山中に釘付けになっていた彰義隊は壊滅し、火を放って北側から敗走した。

1日の戦闘で、彰義隊は消滅し江戸は官軍の手に落ちた。

この作戦を考え且つ実行したのは、長州の村田蔵六(大村益次郎)であった。




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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめて御邪魔したものです。アームストロング砲の活躍は僕もあちこちで読みました。切り札、という感じですね。
備中
2008/09/26 13:51

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