志の歴史

アクセスカウンタ

zoom RSS 菊一文字

<<   作成日時 : 2008/04/28 13:36   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 1

画像



その真偽は疑われているが、新撰組一番隊組長沖田総司の佩刀が

菊一文字則宗
であったという説がある。
これは、司馬先生の作品で紹介されたためと思われるが、私としては信じたい気持ちがある。

菊一文字則宗は、鎌倉期の古刀の代表的なもので最も有名なものは足利家重代の宝刀
「二つ銘則宗」(国宝)
だという。
則宗は備前福岡の刀工で、いわゆる福岡一文字派に属し、後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、菊花紋章を彫ることをゆるされたため、俗に
菊一文字
といわれる。

沖田が、この菊一文字を受け取ったときの様子は以下のように描写されている。

「では」
と、手にとって、一気に抜いた。眩むような光芒が、沖田の視野に湧きあがった。
二尺四寸二分。
細身で、腰反りが高い。刀文は一文字丁字とよばれる焼幅のひろいもので、しかも乱れが八重桜の花びらを置きならべて露をふくませたようにうつくしい。


新撰組の他の2人、近藤勇と土方歳三の佩刀も、おのおの

虎徹
和泉守兼定
といった名刀といわれるが、その真偽も定かではないようである。

しかしながら、剣の使い手である彼らにはそういった刀を持っていてほしいと思うのである。

沖田総司については、「剣の使い手」のブログで紹介したが、
彼の剣について、さらに紹介したい。

沖田の突きは、非常な難剣で、壬生(新撰組の本部)の道場でも受け止められるものがなかったという。

まず、青眼から刃をキラリと左横に寝かせる、
どん、と足を鳴らして踏み込んだときには
腕は伸びきり刀は間合いを衝いて相手を串刺しにしたといわれる。

沖田の突きは三段といわれた。
たとえ相手がその初動を払いのけても、沖田の突きは終了せず、
そのまま、さらに突き、瞬息、引く。
さらに突いた。

この動作が一挙動にみえるほど速かったといわれる。

これは、剣技描写の名人、司馬先生の記述である。

かつて、NHKの番組で現在の天然理心流の剣士の人によるその流儀の突きを見たことがあるが、
実戦での沖田の動きはさらにダイナミックだったろうと思ったことがある。

よく知られるように沖田は、労咳(肺結核)を患っており、
池田屋の変
で、吉田稔麿を斬ったときに大喀血を起こしたといわれる。

当時、結核は治療法のない死病であった。
自分が短命であるのに対し、これまでその持ち主は代わり続け、
その全てがこの世にいなくなったが菊一文字だけは時を超えて700年生き続けた。

(もっと生きよ)
と願った沖田総司の気持ちを描くために、この題材を司馬先生は選んだのかもしれない。

沖田総司の菊一文字の刀の話は有名なようで、いろいろなHPやブログで述べられている。
しかしながら、そのほとんどは沖田の所有に否定的である。

沖田総司は、江戸千駄ヶ谷池橋尻の植木屋の納屋で病(結核といわれる)を養い、明治元年5月30日にひとり死んだ。
則宗は死ぬまで総司の枕頭にあり、死後、姉のお光に渡された。
家族は、立川に住んだため、神社に奉納したとしても、地理的に東京の神社であるように思われる。

と司馬先生の短編

菊一文字
には、書かれている。

私も、現在も東京のどこかで眠っていると信じたい気がするのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
『沖田総司おもかげ抄』に沖田要氏の話として、総司の死後に佩刀の菊一文字を千葉のお宮に奉納したという話が載っています。
要氏は、総司の姉ミツの孫ですが、自分の扮装肖像画を総司の写真として新聞に掲載したり、総司の孫を自称したりしていて、彼の話の多くは創作と考えられています。
要氏の父芳次郎と叔父将太郎は警官として西南戦争に出征していますが、芝の愛宕神社に同戦争で戦死した警官の慰霊碑が建っています。
「千葉」は「芝」の聞き違いとも考えられ、総本社である京都の愛宕神社には豊臣秀吉が奉納した「二つ銘則宗」があります。
要氏は「二つ銘則宗」をモデルにして伝承を創作したのではないかと思われます。
くま
2008/06/22 14:19

コメントする help

ニックネーム
本 文
菊一文字 志の歴史/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる