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<<   作成日時 : 2008/05/05 09:32   >>

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(伊勢神宮を流れる五十鈴川です。)
神道に、教祖も教義もない。
畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。

それが、神道だった。

「このくにのかたち」での、神道の説明である。

むろん、神殿は必要としない。神殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。

このGWに紀伊半島を一周した際に、伊勢神宮の内宮に参った。

いつの時代かは、文字による資料はないが、天照大神という、多分に太陽信仰を思わせる神
-御魂代は八咫鏡-
が、伊勢の五十鈴川のほとりにまつられた。その後の内宮の起源である。

内宮・外宮の対が完成した5世紀後半の日本といえば、公式的には大陸との国家的交通はなかった。

内宮・外宮の社殿建築をみても、大陸からの影響はない。
宇宙のしんを感じさせるほどに質朴簡素である。

社殿は、5世紀ごろの大王の宮殿そのままであると考えていい。

と司馬先生の説明にある。

たしかに、社殿もそのまわりを囲む壁もすべて木でできており
古代の住居

という感じであった。
(ちなみに社殿の撮影は禁止されていたので、写真は撮れませんでした。)

二十年ごとに行われる次の建てかえ(式年遷宮)は、平成25年ということで、その費用の協力が呼びかけられていた。

奈良朝のころ伊勢神宮のいっさいは国費でまかなわれいた。
古代中国の社稷と同様、私幣はゆるされなかった。
神宮に幣帛を奉ることは天皇のみにかぎられ、皇太子といえども勅許を必要とした。

社稷とは、対の壇のことで、二基あったという。
古代中国で、一つの王朝が興ると、創業の王が、首都の一隅にひっそりと二つの相似形の壇を築いた。
その王朝が亡ぶとその社稷も亡び、一空に帰した。

司馬先生は、伊勢神宮は日本化したかたちながら、社稷と考えたのである。

平安期に入って、律令の世が疲弊した。
伊勢神宮自身も、前代未聞のことに、御園という名の荘園をもつようになり、半ばを他に依存した。
その結果、「私幣禁断」がゆるまざるをえず、ひとびとの寄進をうけつけるようになった。
従って、ふつうの人が伊勢神宮を参拝するようになった。平安後期ごろからである。

江戸期まで時代が下ると伊勢神宮は幕府から六千二百石の領地をもらっていた。
参詣人は武士階級より庶民が圧倒的に多くなっていた。

社稷が、大衆化したのである。

と司馬先生は言う。

因みに、司馬先生は、まだ新聞社に勤めていたころに昭和二十八年の遷宮のときより数年前に神宮司庁へ訪ねて
「(遷宮の際に)ご神体(八咫鏡)を拝見できないものでしょうか。」
と言ったらしい。

今から40年ほど前に訪ねたことがあった伊勢神宮は、今も大きな木立に囲まれた清浄で美しい場所であった。



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