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zoom RSS 十面埋伏の陣

<<   作成日時 : 2008/09/21 12:52   >>

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  (土佐高知城です。。)

戦国時代の戦闘においても
布陣の型というものがあったらしい。

三方が原の戦いにおいて、武田信玄と徳川家康が対峙したとき
武田信玄は、魚鱗の陣
徳川家康は、鶴翼の陣
を張ったという。

魚鱗の陣とは、中央部が突き出た人字形をした密集隊形のことで
鶴翼の陣とは、鶴が翼を大きくひろげたような、横一文字に展開した形をいう。

鶴翼の陣は、厚みがないため中央を突破されやすいが
そのかわり両翼が敵を包んで包囲隊形を自然にとれる。

敵を包囲することは勝利へのもっとも簡単な図式であり、
明治後の日本陸軍も常套的にこれを用いた。

と小説「覇王の家」にある。

敵を包囲する運動の原則は、十数人の分隊単位でも、
二万人の師団でも同じである。

ただし、三方が原の戦いでは、家康の鶴翼の陣は武田の大密集軍により突破され
家康側の惨敗に終わっている。

織田信長が尾張を制した後の最大の課題は
美濃攻略であった。

美濃の稲葉山城へ執拗な攻撃と退却を繰り返していた。
美濃の斎藤側には
竹中半兵衛重治
という後世に名を残した若い軍師がいた。

永禄四年七月二十一日の大攻勢の作戦のとき
信長は、この竹中半兵衛のたてた

十面埋伏の陣
という巧緻な戦法にかかって退却さえできなくなった。

十面埋伏の陣とは、後世の用語では
縦深陣地
のことである。

普通の縦深陣地ではなく、全軍伏兵化し
敵が十分侵入してきたときに退路を遮断し、
敵の頭部を叩き、さらに左右から衝き、
最後に包囲殲滅するというものであった。

このとき、まだ士分でもなかった木下藤吉郎が放った偽兵が
稲葉山の山続きの洞山あたりで松明をかかげたため斎藤側は
城下を守るために退却し、織田側は救われた。

これらの陣形についての用語は、中国の兵書にあるものだが、
この時代のひとびとはそういう兵書を頭において陣形をつくっているのではなく、
ながいあいだの相互刺激によってできあがった幾つかの型を、
その場その場の判断と必要に応じてとっているのである。

ところで、司馬先生は先の湾岸戦争の際に
イラク軍とアメリカ軍の戦闘において
米軍がどのようにイラク軍を攻略するのかを
ある興味を持って見ていたという。

当時のイラク軍は、かつてのソ連の指導により軍隊をつくった。
ソ連の得意とする陣形は
重厚な縦深陣地
である。

当然、イラク軍もその陣形をとる。

米軍はそれをどのように潰すのかが関心事だった。

結果は、空爆による重要地点へのピンポイント攻撃により
イラク軍は敗れた。

現代の戦争のおいては、歩兵による接近戦は第一の選択肢ではなくなっていたのである。



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