志の歴史

アクセスカウンタ

zoom RSS 坊っちゃん

<<   作成日時 : 2008/11/09 09:19   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

明治後の東京は、異常な憧憬を地方からうけた。

大学にかぎっていえば、
「大学令」による大学は

明治末に京都大学の各学部が逐次開設されていくまで、三十余年間
東京にただ一つ存在した。
さらに言えば、本郷のみに存在した。

と街道をゆく「本郷界隈」で司馬先生は述べている。

司馬先生は、当時の東京帝国大学を
外国からの文明を受容し、日本各地へ配っていく

配電盤
という表現をしている。

文明受容の方法は、政府と大学に多数の外国人を
御雇い
としてやとうというやり方でおこなわれた。
同時に留学生を欧米に派遣し、やがては外国人教師と交代させる
というやり方をとった。

明治政府が雇った外国人の俸給は欧州でも評判になるほど高いものだったようで
このためあらそって優秀な人材が日本にきた。
というより、東京に集まった。さらにいえば、本郷に集中した。

しかし、その高額すぎる俸給は当然ながら国家予算を圧迫した。

伊藤博文によれば
「実にやむおえざるの事にて」
「惜しいかなわが国の人物、未だその科を了得する者希少」
であるからしかたがない、と言っている。

しかしながら、学生たちの「孜々勉学」によって、後日
外国人をやという「煩労を省き」というのが、将来の目標だった。

「煩労」というのは、露骨に言ってしまえば、
「金がかかりすぎる」
ということだった。

外国人教師が、留学帰りの日本人に席をゆずりはじめるのは、
明治十年代の終わりごろからだったという。

その留学帰りの日本人の1人が
夏目漱石である。

彼の書いた
小説 坊っちゃん
では、主人公が東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業して
松山中学校へ数学教師として赴任する。

漱石その人も、松山が久松家十五万石の旧城下であることは知っているが
そこにどれほどの文教の伝統があったかについての関心を持った形跡はなく
いわば頭ごなしに田舎ときめつけた気配がある。

しかし、現代の文化的価値観からすれば、三百年続いた松山城下の
その文化的厚みからすれば、漱石つまり坊っちゃんの持ち帰ったものなど
足元にも及ばないに違いない。

小説 「坊っちゃん」では、東京と松山の間の当時の文化的価値観の落差を
描いているのである。

坊っちゃんの主人公は、配電盤である。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
坊っちゃん 志の歴史/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる