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<<   作成日時 : 2009/02/15 13:03   >>

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日本における

公の意識の一源流は
豊臣時代以来の政治形態にあった

と「この国のかたち」で述べられている。

徳川政権における大名というのは
その領地にあって、農地や市街地に一坪の
土地も所有していなかった。

大名は、ひろく領内の支配権をもっていただけであった。

この点、貴族が農場主だった封建時代のヨーロッパや
帝政時代のロシアの場合と大きく異なっている。

帝政時代のロシアでは、貴族が金にこまって農場を売るとき
広告を出して、その農地の上に、農奴が多くいればいるほど
高値がついた。

日本において土地をもつものは、町人と農民だった。
藩士たちも、土地などは持っていなかった。

「あの角の八百屋の地所は、ご家老が持っている。」
ということは、ありえなかったのである。

この点が、ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との
日本における封建時代の決定的なちがいといえる。

と司馬先生は述べられている。

ふるい時代の日本では、ヨーロッパの貴族の
土地所有と似た時代があった。

室町時代の地侍や国人というのがそうだった。
地侍は1ヵ村程度の農場主で、国人はその大いなるものをさす。

しかし、豊臣秀吉が天下をとると、
この支配層を壊滅させ、自作農設定主義を大方針とした。

自作農から大名たちがじかに租税をとりたてるというやり方だった。

この方針は、織田信長も目指した国家の政治形態であり
中世の社会体制を構成していた津々浦々にいて農奴を従えている
大地主(地侍たち)を潰していったのである。

豊臣時代以来、大名が持ち、その家来たちが執行したのは
領内の行政権ともいえる支配権だけという、いわば
義務だけだったというのは、日本的な公の意識の一源流
と考えていい。

たとえば、大名ならみな国許に城(小大名なら陣屋)がある。
これも、近代法でいう
所有権
が大名にあったかどうかうたがわしい。

たとえば、広島城は、豊臣政権下で、毛利家の経費により
設計・施工された。
その後、関が原の役の後は、毛利家は萩に移され、
広島城には福島正則が入った。

ほどなく福島氏は改易され、浅野氏がこの城に入り
わずか二十八年の間に三度も所有権が移動しているが
そのつど代価が支払われることは、なかった。

城は、漠然とした観念ながら
公のもの
という思想が確立していたにちがいない。

大名には居城の所有権があったわけでなく
使用権のみがあっただけということなる。

全国の城々は明治四年(1871年)の廃藩置県によって
いっせいに国家に無償召しあげされ、国有地になった。

当時たれもあやしまなかったところをみても、
城は天下のものという観念は、ふつうに
ゆきわたっていたのである。

日本における
公の意識
は、すでにこういったところから生まれていたのである。




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