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zoom RSS 呉音と漢音 漢字の読み方

<<   作成日時 : 2009/10/19 19:33   >>

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(うみぼたるからの、千葉県側の夜景です。。)


「東京」
という文字を日本人読む場合、通常

「とうきょう」
と読み

「とうけい」
とは読まない。

「とうきょう」
という読み方は、呉音である。

日本語におけるこのような漢字の読み方の
区別は、遥か昔の中国との文化交流の経緯によるものと
司馬先生の街道をゆく「耽羅紀行」で紹介されている。


日本における漢字は、組織的には百済からきた。

百済は、長江の下流の呉と呼ばれる地方(今の蘇州付近)
や同じく長江の建業(いまの南京)と付き合っていたために
漢字の音じ方は、呉音だった。

従って、日本の奈良時代の漢字の音も呉音なのである。

百済から暦やその他の漢籍がもたらされたため
日本の一年十二ヶ月の数え方は、呉音である。

「正月」(しょうがつ;漢音であれば せいげつ)
「二月」(にがつ;漢音であれば じげつ)

この漢音とは、長安(現在の西安)の音のことである。

百済は、660年に新羅・唐の連合軍により滅亡し、
その大半が日本に来たと考えられている。

その人々は、日本の朝廷で重んじられた。

このとき、日本においては呉音が圧倒的となっていた。

中国においては、六朝の最後の王朝である陳が亡び
隋という統一国家ができ、つづいて唐帝国が樹立された。

隋も唐も首都を長安においた。

日本は、隋のときに遣隋使を送り、唐になって遣唐使を送った。

小野妹子が遣隋使になったときは、聖徳太子が摂政時代のときである。

当時の日本は呉音時代のため、摂政は「せっしょう」と呉音で読み、
「せっせい」という漢音では読まない。

遣隋使や遣唐使達は、長安に行ったとき混乱したのではないか
と推察される。

とくに、経典については日本ではずっと呉音で読まれ続けており

持統天皇5年(691)に音博士が置かれ、長安音の普及がはかられた。

ついで720年(養老4年)には、僧侶に対して
「経典を漢音でよめ」

という命令がだされたが、僧侶達は最初に覚えた呉音をすてることに
抵抗したため、こんにちにいたるまで日本語に深刻な困難さをのこした。

つまり、呉音・漢音併用(というより混在)の日本語がうまれ
外国人の日本語習得を厄介なものにしている。

年号ひとつでも、たとえば大正のタイは、漢音(呉音ならダイ)である以上
正は漢音としてセイでなければならないのに呉音のショウを用いている。

一方で、漢字文化圏にあっては、

が中心であり、それをどのように声にするかとなると
実は、音も訓みもどちらでもよい(もともと表形文字だから)

ということらしい

「現在中国語音で音じよ」というような中国人はいない、
というのは中国の人は漢字の音がどういうものかをよく知っているため
だそうである。

このような観点から、特に韓国の方の名前について
漢字表記である以上、その音に執着する必要がないのではないか
と司馬先生は述べられているのだが、現在では表音文字であるハングルの
音の通りに呼ばれるようになっている。

日本語の漢字からは、その読み方だけでも遥か昔からの文化交流の
跡を見出すことができる。

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