志の歴史

アクセスカウンタ

zoom RSS 御家中

<<   作成日時 : 2009/11/01 08:33   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

司馬遼太郎先生の

街道をゆく「近江散歩」に

彦根城をある冬の朝に訪ねるシーンがある。

司馬先生が、大息をつきながら石段をのぼっていると
石段の上から十数人の人達が降りてくるのを見る。

みな五十年配の神士たちで、
そろって銀行の外為部長か調査部長のような顔をし、
制服のように地味な背広にコートといった姿であった。
みな無口だが息があってあり、ごく自然にかたまりつつ
足どりをあわせておりてくる。

おなじ会社の人たちにちがいない。

(御家中だな)
と司馬先生は、不意に思った。
(私のような浪人ではない)

家中とは、
「江戸時代の藩の家臣の称。藩士の総称。また、藩の意」
(広辞苑)

とのことで

城内の石段が背景だけに江戸時代が生きている
というあざやかな印象があったという。

一様に折り目ただしく、御目見得以上の上士が
下城してくるという感じであった。

このころには、大会社などでは、御家中といった文化が生きている
と司馬先生は、他の著作などでも述べておられる。

彦根藩は井伊家である。
その藩風を決定した、三代目の直孝(1590-1659)の
逸話が幾つか紹介されているが、その中で面白い話を
述べたい。

彦根の郷土史家である中村達夫氏が著した
「彦根藩侍物語」
に書かれていることだそうである。

このとき、大阪夏の陣で抜群の槍の功をたてた
八田金十郎という者と、彦根の町奉行の大久保新右衛門とが不和になり
事態が先鋭化し、家中の一部が両派にわかれ、騒動寸前まで発展した。

当時は、戦国の余風がのこっていて、どの藩でもこの種の騒動が多かった。

直孝は夜陰、家臣に総登城を命ずるという、異例のことをした。

やがて家臣全部が城内の大広間にあつまると、直孝が出座した。

やがて、ひとびとの膝のあいだを踏み通って大久保新右衛門の前に出
いきなり戦場ふうの武者あぐらをかいた。

「新右衛門、このたびのこと腹に据えかねることであろうが
 かの金十郎は去る大阪の陣にて槍一番のはたきをした男である。
 わしにとっては惜しき者ゆえ、このわしに免じ、ならぬところを
 堪忍してくれまいか」
 この懇切な主人の言葉により、たとえ決闘を避けても不名誉ではない
 という立場を得た。

直孝はさらに下座のほうにゆき、
金十郎の前では片膝だけをつき、中腰のまま、
金十郎の武功をたて、かつ行政者である新右衛門が亡くなれば
わしがこまるのだ、といった。

このとき、重要なのは直孝の所作であったという。

千二百石の新右衛門の前では、直孝は戦場の作法である
「武者あぐら」をかいた。
これは、新右衛門を対等者として遇したことになる。

これに対し、金十郎の前では片膝をつき、
中腰のまま声をかけたのは、
戦場で上級者が下級者に対してとるしぐさである。

この所作により
「お前は五百石取りなのだ。新右衛門とはちがう。」
ということだけでなく、小禄ではあるが

「そこもとはわが郎党である」
という源平依頼の武士の世界の主従というものの
親しみを込めたのである。

金十郎は感じ入って、決闘を撤回した。

「御家中」
というものは、この類の歴史(人間関係の細かい配慮)が大小となく無数に
積み重ねられて成立している。

この
「家中文化」
が近代社会になってもぬけるものではない
というのが司馬先生の説明であった。

司馬先生の著作から、二十年経った今、日本の会社文化は
変わってしまっただろうか。








テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
御家中 志の歴史/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる