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zoom RSS 宮本武蔵の兵法

<<   作成日時 : 2011/06/26 08:05   >>

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(ひさしぶりに行ったディズニー・シーです。)



兵法の流祖は、室町時代から戦国時代にかけて現れた。
しかしながら、太刀振りなどという兵法技術は、
実戦が行われた乱世では尊重されなかった。

兵法の兵は雑兵の兵であり、
兵の技術である。

軍の進退を指揮する士の技術ではなかった。

しかし、徳川の時代になって、世も安定してくると
兵法は世間から評価され始める。

宮本武蔵は、この徳川の成立期にあって
仕官を欲しはじめた。

(できれば将になりたい)
兵法者の石高は、大大名でも六百石が限度といってよかった。

彼が、尾張藩に仕官を求めたときの希望は

三千石
であった。

これに対して、藩主の中納言徳川義直は、
「三千石で、いいではないか」
といったのである。

この時の、尾張藩の指南役は、柳生兵庫助利厳である。

彼は、宮本武蔵の兵法の本質を見抜いていた。

義直から
-わがために武蔵の兵法を語れ
と命じられた兵庫助は、いう。

「かの武蔵の兵法は、他人には教えられない。」

「武蔵は日本一の強さである。
 しかし、かれの兵法は技術体系ではなく多分に哲学である。
 彼の強さは、彼固有の精気を用いるからである。」
と続けて、兵庫助はいう。

「蛇が蛙をすくませるような
 万人にひとりの固有の精気を備えている。
 だから、武蔵の兵法はひとに教授できない。
 武蔵が兵法を哲学として説きたがるのは
 かれの技術が技術として説いてとききれぬからである。」

義直は、おどろいた。
人に教授できない技術であれば、高禄で召抱えるのは意味がない。

義直は、左右に命じ、武蔵の演武を見た。
結果は、兵庫助の予言がみごとに的中した。

武蔵の相手は、わざと家中で錚々たる者をえらばす
ことごとく未熟者を選んだ。

一流を教授している者に試合をさせればその者に傷がつく。
演武を見る程度であれば、未熟者で十分である。
という、兵庫助のことばを採用したのである。

演武では、みな武蔵と対峙するだけで、蒼白となり
あぶら汗を流し、荒息を吐き、やがて一種恍惚の表情となる。

武蔵は、ゆると剣をあげ、かるくかれらを撃つ。

(そのことか)
義直はすべてを領解した。

兵庫助の武蔵論は、おそらく武蔵の本質を
その背後まで突きとおしたものであったろう。

武蔵の兵法は、かれの死後、
二刀流、円明流、武蔵流などといわれて
尾張だけでなく、豊前小倉、肥後熊本などに残ったが
ほどなく絶えた。

同時代の伊藤一刀斎がうちたてた一刀流が
かずかずの流派にわかれて日本剣道の正統として栄え
こんにちまでひきつがれていることをみれば

武蔵の兵法体系には欠陥があったとしか思えず
その欠陥を、武蔵自身の固有の気で埋めていたとしかおもえない。

武蔵の仕官は、この尾張だけでなく、各地でことごとく不調に終わる。

晩年、細川家から招聘があり、
「客分」
という身分で
「堪忍分の合力米」という
藩の給与行政にない特別な手当てを創設した。

合力米というのは寄付という言葉にちかい。

ただし、十七人扶持のほかに現米三百石という
大きいものであった。
また、家老だけの特権であった鷹狩りの許可も与えた。

宮本武蔵は
六十二で死んだ。

以上は、司馬先生の著書「宮本武蔵」に書かれていることである。

世の中での技術のありかたについて考えさせれる話であった。





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