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zoom RSS 鍵屋万助(明石屋万吉)のこと

<<   作成日時 : 2012/05/12 12:30   >>

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一つ前の記事に

幕末の大阪の侠客
鍵屋万助
のことを書いた。

彼の話しは、司馬先生の小説
「俄」や短編「侠客万助珍談」

に著されている。

「俄」では、主人公は
鍵屋万助ではなく、明石屋万吉
という名前になっている。

これらの話しが面白いのは
幕末維新の騒乱、事変は、大なり小なり
万助にとって金になったことである。

無論、万助には侠客としての才覚も並外れた勇気もあった。

ただ、その勇気は
どこそこの親分を叩き斬った、とか
たれの縄張りを押領したとかというような
はなやかなものではなかった。

ばくち打ちになったのは、十一歳のときからである。

当時大阪は、日本における経済の拠点で
米相場が立ち、諸国の物産が現金化されることから
金銀が市中にうなるようにあった。

自然、ばくちは江戸より盛んで、子供博打もあった。

十二,三の小僧が胴元になり、
ゴザの上に一文銭を山のように盛りあげ
神社仏閣の境内などで毎日やっている。

万助は、十一歳でこの道に入った。
といっても胴元にもならず、客にもならない。

どこからかやってきて、いきなり銭の山へ
のめりこんでしまう。
銭をつかんで、懐にねじ込み、そのまま息を殺し
体を固くして制裁を待っている。

大さわぎになり、やがて下駄やコブシでなぐられ
半死半生の目に遭うが、声ひとつあげない。

そのうち定廻りの同心などが巡回してくるため
なぐっているほうも、なぐられているほうも逃げざるおえない。

こういう渡世で、十二歳のときにすでに十両の家を買って
階下は駄菓子屋に貸し、洗濯婆をやとっていた。

だが、これだけでは親分にはなれない。

とくに名を上げたのは、

堂島の米相場に
「公儀御買米」
という幕府からの強権介入があり
米価がウナギのぼりに急騰したときである。

この堂島の市場になだれこみ、見事につぶしたのである。

大阪の米問屋からの依頼によるものであるが
米価の急騰に苦しめられていた大阪の市民からも
喝采をあびた。

しかし、このときの奉行所の拷問はすさまじかった。

尋問は、当然のことながら
「だれに頼まれた」
という一点である。

吟味にあたったのは、奉行所の与力
内山彦次郎
である。

内山は、大塩平八郎の乱のときに大塩捕縛に
立ち向かったことで有名であるが、その本領は
警察官僚ではなく、経済官僚としてのものと言われている。

このときの「公儀御買米」は大阪を犠牲にした上での
江戸市中の米価高騰抑制のための非常措置であり
内山自身が幕府に献策した経済政策である。

用意した資金は、十八万両
当時大阪は銀相場であるため米の枠にして
六十万石を堂島から一気に買い上げようとした。

売り方は、大阪の地元商人であったが、やがて対抗する資金が尽き
中小業者はつぎつぎと倒産し、大阪市中の米価はうなぎのぼりにあがった。

内山の思想は、経済技術者としてはそれなりに正しい。
ただし、今日でもそうだが、経済学者だけにつねに
資本家の利益

があたまにあり、零細民の困窮のことはあまり考えていない。

余談ながら、先に述べた大塩平八郎の天保の乱のとき
大塩は、まず内山を
「零細民の敵」
として討つつもりだったという。

大塩も内山とおなじく大阪町奉行所与力である。
いずれもすぐれた学者であったが、大塩は陽明学者であった。

陽明学は
「行動政治学」
とでもいうべきもので、二十世紀の社会主義に似ている。

大塩と内山の対立は
社会主義経済学者と資本主義経済学者のそれに似ていた。

ともあれ、万助は金のために内山の凄まじい拷問に耐え抜き
ついに放免された。

万助は、このおかげで大金を得た。

万助は、欲がつよいくせに、金ばなれがよかった。
獲た金はほとんど人に呉れてやった。

要するにこの男の欲は、獲得欲で、貯財欲ではなかったらしい。

「浮世で」

とこの侠客はつねづねいった。
「賑やかに暮らそうとおもえば、金は触るもので、握るものやないと思え。」

金をどんどん撒くから、
二十歳ごろには直参の子分が三百にふえ、陪の子分をふくめると千人
という大阪きっての大親分になった。

要するにたれかの跡目を継いで親分になったわけではなく
自分の金で親分になった。

戊辰戦争中、大阪は社会的に混乱してたため、
万助は、治安と経済の復旧につとめた。

新政府に取り入って利を稼ぐためではなく、
社会状態が安定しないと万吉のような渡世は干上がってしまうためである。

そういう中、慶応四年二月十五日
堺事件がおこった。

フランス海軍将兵が、まだ上陸許可がなかった
堺に上陸したため軍監府の土佐藩兵と衝突し
フランス側に射殺、溺死者、負傷、合計十六人に損害が出た。

新政府は対外関係にまだ自信がなく、弱腰だったため、仏国の要求どおり
土佐藩に切腹を命じ、土佐藩では二十名を現場にいた者から
くじで選んだ。

仏国公使は、死罪の処刑は仏国海軍士官の眼前で行うこと
も要求してきた。

切腹は、二十三日午後4時より開始されたが、
十一人目の切腹が終了したとき、
検視の仏国全権はその凄烈さに生色をうしない、
中止を叫び、あとの九人の命は助けるようにと
言い捨てて、逃げるように去ってしまった。

この切腹した土佐藩士の埋葬をめぐり
その境内で切腹が行われた堺きっての巨刹日蓮宗妙国寺が
「天下の罪人である」
ことを理由に
埋葬を拒否したため、土佐藩側はひどく狼狽した。

このとき、万助は、その境内裏の
宝珠院という小さい寺での埋葬を提案した。

万助は、大阪から子分百人をよび
「宝珠院」
と染めぬいたそろいの法被を着せ、埋葬いっさいを無料で請け負った。

さらに町中に
「堺烈士」
のうわさをばらまき、
烈士の墓に詣でれば、無病息災、老人の中気のまじない
婦人の腰冷え、小児の虫封じに効くと宣伝した。

万助は、土佐藩から請いうけて、
十一士の血染めの三方、土佐藩の指揮旗などを
十一基の墓前に置きならべ、宝珠院の僧には
終日読経させ、鉦を鳴らさせた。

果然、大阪はおろか、各地から参詣人が殺到し、
多い日には五万人を数えることがあった。

さらに同年七月には3日3晩の大供養を執行し、
芝居小屋や見世物小屋を興行させた。

あれやこれやで、無名の荒れ寺であった宝珠院は
一躍流行寺となり、巨富を得た。

立案者の万助は、宝珠院から一文のカスリもとらず
芝居小屋や茶屋からの場所代もとらなかったそうである。

ただ、この男は、賭場をひらいた。

この寺銭のあがりだけで、ひと財産をつくりあげている。

まさに、幕末維新の騒乱、事変は、大なり小なりこの男の金になった。

万助は、大正初年、いい老人になって世を終えている。

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